いくつになってもアイラブミー vol.5

アートを通してアボリジナルピープル(オーストラリア大陸と周辺島しょの先住民)と日本の橋渡しをする活動をされている内田さん。その天真爛漫な生き方に本会報誌のコンセプトである「自分を愛し、楽しく生きる」ヒントを見つけました。

何歳だって、今からだって、自分にしか書けないストーリーをつくりましょう!

アボリジナルアートコーディネーター 内田真弓さん

大手企業をやめて自分探しの旅へ

編集部(以下「編」):オーストラリアの先住民であるアボリジナルピープル。現在、内田さんはアボリジナルの人々が描くアートのコーディネートをされていますが、ここに行きつくまでにはどのような人生を歩んで来られたのでしょうか? お話を大変楽しみにしています。

内田さん(以下「内」): 現在はメルボルンに住んでいまして、オーストラリアに来て2023年の今年、何と30年目になりました。

編:もそもオーストラリアに行かれたきっかけは何ですか?

内:短大を卒業して20歳で大手航空会社のキャビン・アテンダントになりました。憧れられ、うらやましがられる職業だったのですが、次第に違和感が広がるようになりました。会社に守られて安泰で、世間からもチヤホヤされたままでいいのか? 会社名や職業名でなく内田真弓という個人で認められたい! という思いがつのり、入社6年目に制服を脱ぎました。「自分が本当にやりたいこと、自分が自分でいられる居場所探しの旅」に、アメリカに行きました。

米国での挫折を乗り越え、オーストラリアへ

内:向かったのはシアトル。アメリカ人4人とのシェアハウス生活が始まりました。シェアメイトたちはいい人だったのですが、早口の英語がチンプンカンプン。コミュニティカレッジで英語漬け! と意気込んでいたもののズル休みも増え、「これはダメだ」と5ヵ月経ったころ、一度日本に帰りました。

編:アメリカでニート状態になるのはきついですね。

内:帰国して1週間ほどすると急に英語がペラペラになるはずない、焦ってどうする、自分のペースで勉強しようと気持ちを切り替えられ、残りの半年のアメリカ生活は乗り切りました。

編:アメリカで語学留学をした理由は何だったのですか?

内:当時オーストラリアで日本語学習熱が高まっており、日本語教師になろうと考えました。しかし海外生活の経験が全くなかったので、まずアメリカで語学留学をしました。

編:まだアボリジナルアートはでてきませんね。これからどう出会うのか、話の続きが楽しみです。

アボリジナルアートとの衝撃的な運命の出会い

内:オーストラリアに渡り、日本語教師として派遣されたのは人口800人程度の小さな村で、日本人は私だけ。地元の小学校で折り紙や書道などの日本の文化と日本語を教えていました。そのような暮らしが11ヵ月続いた1994年、ビザが切れるという理由もあり帰国を間近に控えていたんです。そこで日本に帰るにあたりお土産を買おうと思ったのですが、この村には何もなくて、大都会のメルボルンへ行きました。

編:メルボルンでアボリジナルピープルに出会ったのですか?

砂漠などに住んでいるイメージがありますが。

内:アボリジナルピープルは田舎に暮らしているというのは正確ではありません。その話は後ほどするとして、私が出会ったのはアボリジナルアートが先なんです。

 お土産を探しているとにわか雨が降り始め、雨宿りのために飛び込んだのがアボリジナルアートを専門に扱う画廊でした。何が描かれているのか全く分かりませんでしたが、その妙に懐かしい温かい気持ちに包まれ、店内の作品に釘付けになりました。どうにも気になり、後日もう一度その画廊を訪ね、作品を見て回りながら雷にでも打たれたような衝撃を受け続けていました。

編:内田さんに神様から手紙が届いたのでしょうね。

内:オーストラリアに約1年いて、実はアボリジナルピープルのいい話は聞きませんでした。だから今、目の前で美しくパワフルに輝いている作品は、本当にアボリジナルの人たちが描いたのだろうか? という思いもありました。

 そうこうしながら画廊の中をうろうろしていると男性が話しかけてきました。この画廊のオーナーでした。アボリジナルピープルの話を聞きながら数時間、ここで働きながらアボリジナルアートを学んで日本に紹介しないかとオファーを受けたのです。そして気がつけば6年間も働いていました。

やっと出会えたアボリジナルピープル

編:画廊ではナンバーワンだったのですか?

内:いえいえ。全く売れませんでした。その画廊は世界中からバイヤーやコレクターがやって来る有名店だったんです。英語が下手で電話も出られない。アボリジナルピープルのことを何もわかってないので専門的なことを聞かれては困ると、お客さまから逃げるようでは売れませんよね。

編:数年前、日本の有名なクイズ番組でアボリジナルピープルの暮らしやウルル(エアーズロック)の案内をされていたのに?

内:今の知識やつながりは何度も訪れ、何百日も一緒に生活したからですね。「真弓ノート」と呼んでいる自分なりの解説本をつくるくらい詳しくなりました。しかし当時は、専門書は難しい英語で書かれていて読めないし、アボリジナルピープルに会いたくても居住区へ入るには許可証が必要だし、しかも誰も許可してくれないし…という感じでした。

編:それはそうですね。でも何もわからないのに、直感だけでオーストラリア、しかもアボリジナルアート専門の画廊で働いていたのはすごいですね。よく画廊も働かせてくれましたね。

内:いつクビになるかと、びくびくしている現状を打開するためにもアボリジナルピープルのことを知りたい! 居住区に入ろう! という思いは強くなりました。許可証をどうにか手に入れ、初めて居住区に入ったのは1997年。2週間ほどアボリジナルピープルの村に滞在しましたが、炎天下の砂漠の環境に結膜炎と下痢に悩まされました。しかし今後もずっとつき合っていきたいと思える仲間と出会うことができました。

3日野宿して訪ねるアボリジナルの村

編:アボリジナルの人々が暮らしているのはどのような場所ですか?

内:私は主に、ノーザンテリトリー準州の砂漠地帯で暮らすアボリジナルピープルの居住区に通っています。メルボルンから四輪駆動車で行くと3日ほど野宿する距離です。昔はその2500㎞を一人で四駆を運転して行っていました。すれ違う車は1日1台あるかどうかという場所。パンクの修理もできるようになりました。ここ10年は週1便出る飛行機で近くに行き、そこからレンタカーで移動していますが、あの村まで800㎞、この村には300㎞という感じですね。

編:村に行くのもひと苦労なんですね。

5万年伝承されているアボリジナルアート

内:アボリジナルピープルはオーストラリア大陸に5万年以上前から暮らしている先住民です。私が通う村の人たちは英語を話さず、文字も持ちません。またアボリジナルピープルといっても600以上の異なる言語集団があります。

 アボリジナルピープルにはたくさんの儀式があります。集団から認められると次の儀式へ進みます。その場では大地や身体に絵を描いたり、踊ったりすることで、集団が信じる物語(ドリーミングまたはドリームタイム)に従って、さまざまな砂漠で生きる知恵や情報を伝えていきます。つまりアボリジナルアートは見る言語であり、物語であり、水場や槍の作り方などの情報です。

編:実は知り合いがアボリジナルアートを持っていまして、部屋に飾ると「エネルギーというか、安心感というか、とにかく力をもらえるんです」と言っていまして、その理由がなんとなくわかりました。

いまなお続ける狩猟採集の暮らし

内:現代では先住民といってもスーパーを利用し、政府から家が支給されたりしています。しかし1日の三分の一は狩猟採集を行っているようでした。アボリジナルピープルにとって家は大地なので、あの建物は単なる入れ物くらいにしか思っていません。なのでベッドを外に出してそこで寝起きしたりする人もいました。家をのぞくと家具はなく電源の入ってない冷蔵庫には靴が入っていました。

編:アボリジナルピープル的な発想ですね。それに馴染むのは大変でしたか?

内:砂漠の女王さまだと思ってつき合っています(笑)。

 狩猟では大地の上は男性、大地の下は女性の仕事です。私はどちらにも参加させていただきました。男性のカンガルー狩り、女性のイモムシや蜜アリ採りです。ちなみに私が車を運転して狩り場の近くまで行くのですが、標識もマップもない砂漠をアボリジナルピープルの指示に従って進みます。どうやって見つけるのか聞くと、「大地の表情を読め」とか「大地の声を聞け」と言われます。

編:大地と会話してるんですね。5万年暮らしてきた技というか感性というか…すごいですね。

内:アボリジナルピープルは全て分け合う争いのない人たちなので、私にもイモムシは回ってきました。大切なタンパク源ですから粗末にせず生でも、焼いてもいただきました。

私の物語を紡ぐために画廊から独立

内:居住区に通うようになり、絵が売れるようになってきました。しかし「売るための作品」でなく「自分が『これだ』と思った作品」を紹介したいという思いが強くなり、独立することになりました。

 社員は私だけ、給料の保証もない状態で設立当初は不安でした。そんな私を支えてくれた一つが日本でのアボリジナルアート美術展開催です。画廊時代からあった話を引き継ぐことができました。話をいただいたのは有名新聞社。しかし、美術展はド素人です。作品の選択は? 輸送費は? 保険は? 後援や協賛は? なにより開催場所は? とクリアすることがたくさんありました。日本各地の美術館にファックスして開催をつのりましたが、結果ゼロ。そんなときオーストラリアでスポーツの祭典が開催され、聖火台へ点火したのがアボリジナルのアスリートでした。

 そのインパクトのおかげで日本からアボリジナルピープルのことをもっと知りたいなどの問い合わせがあり、ついには「アート展を開催しましょう」という美術館が現れ、2001年4月から2002年まで4つの美術館を巡回することができました。

 その後はコンスタントにアボリジナルアート展を開催させていただいています。アボリジナルピープルのアーティストに日本へ来てもらったことも何度もあります。

心に響くものを信じて日本との橋渡しを続けます

編:今後の夢は何でしょうか?

内:居住区に通い始めて5~6年、長老から1年に1度、全土からアボリジナルピープルの女性だけが集まる儀式に招待されました。500人くらい集まった女性が体にペイントし、各集団の踊りを10日間踊るんです。また普通に顔を真っ赤にして笑うし、怒るし、泣くんです。そんな人たちと接すると自分の仮面がはがれていきます。

 腰が曲がるまで居住区に通い続けて、日本のみなさんにアボリジナルピープル、文化、アートを知っていただきたいです。いいか悪いか、もう仕事という感覚はなくて、この活動を続けていきたいと思います。

編:接するたびに理解が深まると同時に謎も深まるようなアボリジナルピープルの世界。その世界観が詰まったアートは5万年の時と大地のパワーに満ちていました。内田さん本日はありがとうございました。

アボリジナルピープルが大地の声に従うように、自分の心の声に従った内田さん。私たちも趣味や好きなことなど「ピン」ときたら挑戦したいですね。そしてかけがえのない「私だけの物語」を歩んで行きたいと思いました。

内田 真弓(うちだまゆみ)

茨城県出身。航空会社で客室乗務員として勤務した後、1993年にアメリカへ1年間語学留学。1994年、ボランティアの日本語教師として渡豪。日本帰国直前に先住民アボリジナルアートと出会い深く魅せられる。メルボルン市内のアボリジナルアートギャラリーで6年間勤務した後、2000年に独立起業。「ART SPACE LAND OF DREAMS」を立ち上げ現在に至る。主な活動は日本におけるアボリジナルアート展の企画開催でテレビ、雑誌などのメディアにも数多く取り上げられるなどアボリジナルアートのパイオニア的存在である。2008年K.Kベストセラーズより『砂漠で見つけた夢』を出版。

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